id:izakanazanbiのところで色々とアドバイスを受けてレポートを書いている。

で、思ったんだが、映画学という学問は特にアメリカで決定的に遅れている。映画が19世紀末に発明されて以来、まともに学問の目が向けられ始めたのは20世紀半ば。それまでは大衆娯楽として俗物扱いを受けてきた。1960年代から徐々に学問として、そして芸術として扱われ始めるも、ときすでに遅し。それ以前に製作された映画の8割は永久的に失われてしまったのだ。原因はいろいろあるんで、またの機会に言及したいと思うが、一番の原因は映画というメディアに対する学問的な侮蔑だろう。技術的な問題もさることながら、学術的価値を認められなかったために的確に保存されなかったというのが一番の理由だと思う。そうして映画学は波乱万丈のスタートを切ったわけだが、研究対象の永久的な決損と既存の理論の乏しさのため発展が遅れる。要するに学ぶためのマテリアルが少なすぎるのだ。その証拠として、いち早く映画が芸術としての価値を授かったヨーロッパでは、映画学はアメリカのそれと比べ物にならないほど進んでいた。1960年代までの理論はすべてヨーロッパ製。ロシアのアイゼンシュタイン、クレショフ、フランスのアンドレ・ベザンなどなど。当然芸術としての映画はヨーロッパで花開き、素晴らしい映画のムーブメントが数々巻き起こるが、アメリカでは芸術的価値の少ない商業映画が次々と製作されてきた。ようやく映画に学問の目が向けられ始め芸術映画が細々と製作される。これがアメリカンインディペンデントシネマというムーブメントであるわけだ。その後はちゃくちゃくと映画学は発展してきたのだが、所詮30、40年そこらの歴史では文学などの伝統的な芸術学には並ぶことはできない。国別に映画学が分けられている大学が存在するだろうか?いや、ない。アメリカ映画学、フランス映画学、ロシア映画学などありえない。国ごとに異なる発展を遂げたにもかかわらず映画学は一括りなのだ。かたや、文学はフランス文学、アメリカ文学ロシア文学など国ごとに分けられている。研究対象が膨大だという理由のほかにも、その学問の発展の具合が伺える。50年後、100年後には映画学が国ごとに分けられ、研究されていることを祈りつつ、俺はレポートを仕上げる。

と、なんとかレポートを仕上げたが、仕事まで少し時間があるので時間をつぶしている。上にツラツラと書いたものはレポートはほぼ無関係なのだ。実際は Bresson, Dostoevsky, Bakhtin: Adaptation as Intertexual Dialogue というタイトルの論文を読んで、それについてのレポートなのでした。それにしても完全に選んだ論文間違った。難解すぎて理解するのに相当時間がかかった。やっぱドストエフスキーが絡むとろくなことないですね。結局ブレッソンマンセーな感じでまとめといた。